概要
パルバティ・バウルに学ぶパロミタ友美が主宰し、日本でバウルを紹介し、様々な伝統や分野との交流につとめます。
- バウルについて、実践者の立場から発信する場であること
- 日本でバウルを知る、学ぶことができるひとつの窓となること(窓口ではない)
- バウルと様々な伝統や実践の交流の場となること
- 風響舎(ふうきょうしゃ)の由来は、バウルの語源とも重なる風狂と同じ音であり、前身ともなる2018年パルバティ・バウル来日ツアー「バウルの響き」から一字継承してもおります。
舞い歌う行者であるバウルにとって響き/音の振動は修行の要であり、また、風や鳥はバウルにとってプラーナ(いわゆる「気」)の象徴でもあります。
【参考:パルバティ・バウルのインタビュー】
- 風響舎で伝えるバウルは、パロミタ友美が師パルバティ・バウルから伝えられた、その師であるショナトン師とショシャンコ師の系統のバウルであり、そしてパルバティ・バウルを通じてご縁のあったバウルの師匠たちと関わる中で学んできたバウルです。
バウルは一様に語ることのできるものではなく、ここで語られることが他のバウルの言説と仮に相反する要素があったとしても、私たちはそれを否定する立場にはありません。
- バウルの語彙や詩を翻訳する日本語は、まだまだ模索の段階にあります。タゴールが紹介して以来一世紀が経つ英語においてもそれは同じだとパルバティ・バウルは言われます。
バウルは確かに、インドのベンガル地方という異国の風土で育まれたものではありますが、私はこれを異文化として紹介したいものではありません。
ひとつの人間の文化として、ただそれだけの価値として知られる価値があると信じています。
風響舎はバウルを自分自身の言葉、文化とするための日本での表現を模索する場でもあります。
(ただし、それはあくまでベンガルの文化や言語を弛まず学び続ける基盤の上にのみ成り立つものであることも申し添えておきます)
系譜
パルバティ・バウル
現在、世界的に最も知られているバウルの一人であり、同時に卓越した演奏者、ストーリーテラー、そして画家でもある。
一弦琴エクタラを右手で弾き、左手は腰に結わい付けた小鼓ドゥギを叩き、足首の鈴飾りヌプルでステップを取りながら舞い歌う、古いオーソドックスなスタイルを特徴とし、その歌声の妙技・深みある演技は、世界中の音楽家や、音楽愛好者に賞賛されている。
近年最も尊敬されていたバウルの長老、故ショナトン・ダス・バウルと故ショシャンコ・ゴシャイの許で、数少ない弟子の一人として厳しい修行をくぐり抜け、バウルの音楽と精神の次世代への継承を託された。
ラヴィ・ゴーパーラン・ナーヤルと共にエクタラ・カラリを設立し、バウルを中心としながらインドの霊性の伝統やその表現の紹介と振興につとめる。
師匠であるショナトン・ダス・バウルの願いであった、バウルの伝統を守り伝える場として、ショナトン・シッダ・アシュラムをインド西ベンガル州のビルブム地区に設立。アシュラムでは周辺の村人のためのアーユルヴェーダ・キャンプや、近隣の子どもたちにヨーガや歌、文化などを教える教室も定期的に行っている。
その伝統への弛まぬ貢献が認められ、インド政府によってサンギート・ナータク・アカデミー賞(インド国立音楽演劇協会賞)を2019年を授与される。インドで芸術家に送られる最高位の勲章のひとつである。
ホームページ:https://www.parvathybaul.com/
下は、前回2018年の日本ツアーを中心に撮影された、阿部櫻子によるパルバティ・バウルのドキュメンタリー(Vimeoで有料視聴可能)。
ショナトン・ダス・バウル
ショナトン・ダス・バウルは現在のバングラデシュに位置するクルナ地区にベンガル暦1330年(西暦1923−1924年)に伝統的なヴィシュヌ派の家に生まれる。祖父はキールタンの歌い手で、歌による長い時間の物語りを行っていた。
インド分離独立の2年前に一家でインド側に移り、ジャトラ劇団に参加、年少のうちは女形をつとめる。やがてバウルの古い歌への興味が育ち、各地を旅して伝説的なバウルの師匠たちを訪ねて学ぶようになる。最終的な学びと灌頂はケパ・モノホル・タクルに与えられる。
やがて行者にして歌い手としてその名を轟かせ、数多くのサドゥ・モッチャブ(行者祭)やバウル・フォキル祭、村の祭りなどに招かれる。シャンティニケトン(タゴールの創始した大学)でのバウル・フォキル祭では50年以上にわたり開会の役を務めた。フランスやイギリス、アメリカなどの海外公演にも招かれ、1995年にはラロン・プロシュカル賞、のちに西ベンガル州よりラッジョ・アカデミ・プロシュカルも授与される。
2016年3月、入定。ショナトン・ダス・バウルのアシュラムはバクラ地区のショナムキ村にあり、下の映像もそこで撮影されたものである。
ショシャンコ・ゴシャイ
ショシャンコ・ゴシャイはムルシダバード地区のシンガル村に生まれる。生年不詳。2007年の入定の際には100歳を超えていたと考えられている。伝統的なヴィシュヌ派の家に生まれ、父はシュリーコールやパカーワジなどの太鼓の名手として知られていた。ザミンダリ領主の時代、ラクナウやイラーハーバードから名音楽家や高級遊女の歌い手たちが招かれたときにはこの父も太鼓で伴奏を務めた。
13歳のときに父が亡くなり、三人の弟妹を育て上げる責任が幼い肩にのしかかる。ジャトラ劇団に入団して俳優として名を馳せながら、お菓子屋でも働く。
1943年、ベンガル大飢饉のときに霊性の道に入り、バウルの伝統へと導かれる。家にはかつて父が爪弾いていたエクタラ(一絃琴)があり、それを修復してバウルのうたを歌い始めた。多くの伝説的なバウルに学び、バウルとしての灌頂はムルシダバード地区のニッタノンド・ゴシャイにいただく。師匠たちの誰もが、最も古いバウルの歌い方の継承者であり、エクタラ一絃琴とドゥギ小鼓で歌っていた。
ショシャンコ・ゴシャイはあまり表には出ず、行に専念したが、時には村々の祭への招待を受け入れることもあった。バウル行者として非常に尊敬されたが、弟子は少なく、バウルの歌舞いを伝授した弟子はたったの五人である。
主宰
パロミタ友美
バウル行者(弟子)、翻訳者、詩人、画描き。
2013年よりパルバティ・バウルに師事。
オーストラリア国立大学でサンスクリット語と言語学を学び、「詩を歌う」文化への興味からインドの歌文化に惹かれる。
ケーララ州で日本語講師をしながら南インド古典声楽を手習いしていたときに、縁あってパルバティ・バウルに出会い、のちにバウルの道に入る。
2018年、パルバティ・バウル来日公演ツアー「バウルの響き」を有志の仲間と共に主催、のべ1000人余りを動員する。
幼い頃から古代文化に、十代から武術や身体文化に興味があり、現在も日本では舞などを学びバウル行の糧としている。
日英バイリンガルで、ベンガル語、マラヤーラム語、サンスクリット語はちょっと分かる。
訳書にウィリアム・ダルリンプル著『9つの人生:現代インドの聖なるものを求めて』(集英社新書)、パルバティ・バウル著『大いなる魂のうた:インド遊行の吟遊詩人バウルの世界』(バウルの響き制作実行委員会)
個人ウェブサイト(バウル関係のこともたくさん書いている)はこちら。